亡き師はかく語りき⑪ 独立国家のオーケストラとして
1956年のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の初来日公演は、この世界随一のオーケストラにとって、歴史的にとても意味深いものであったことを、ある方より教えていただき、私は呆然となったのでした。
オーストリアは第2次世界大戦中にナチス・ドイツに併合され、ウィーン楽友協会は解散を逃れたものの、ナチスの支配下となってしまうのです。
詳細は下記のWiki辞書の《ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 の 第二次世界大戦期および戦後 》の項をご参照ください。
終戦後、オーストリアはドイツ、イタリア、日本と同様、敗戦国として戦勝4国の占領下となりました。
《オーストリアが敗戦国…》、これまでその認識が私には全く無く、恥ずかしい限りでした。
オーストリアは、戦時中はナチスに、戦後は戦勝国に翻弄され、それとともにウィーン・フィルも同じ扱いを受けたのです。
オーケストラそのものの活動、特に海外から名指揮者の来演については制約が多かったそうです。
そして戦後10年の1955年、オーストリアは4国の支配から開放され、独立。
翌年のウィーン・フィルの初来日公演は、そうした支配から独立して、初めての本格的な海外公演の一つだったのです。
反ナチスとして闘ったヒンデミットを指揮者に擁して、同じ敗戦国、日本を訪れたことにとても大きな意味を感じさせます(前衛作曲家だったヒンデミットはナチスより、退廃芸術家の烙印を捺されながらも、亡命し、自分の意志を貫いたのです)。
50人ばかりの小編成でしたが、それを活かして企画構成、ベートーヴェンの交響曲第4、8番、シューベルトの第6番、メンデルゾーンの第4番《イタリア》、生誕200年のモーツァルトの交響曲、楽員独奏による協奏曲、管楽のディヴェルティメント、さらにはヒンデミットの《小交響曲》などを聴かせたのです。
《節制しながらも豊かに》、ブラームスの作曲のモットーが頭を過りました。
2021.2.6初出ですが、2.15の最終回に合わせて掲載日を変更
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