亡き師はかく語りき⑦ 大いなる学友ⅲ

 故・馬場省一先生のウィーンでの学友として、挙げないわけにはいかない方。

 生涯の盟友となったヴァイオリニストの岸邉百百雄さんです。


 岸邉さんはウィーン留学中(1958-64年)、後にアルバンベルク弦楽四重奏団を組織するギュンター・ピヒラーやトマス・カクシュカらと、ヴィナー・ゾリステンの設立に関わります(62年、岸邉さんはヴィナー・ゾリステンのツァーで凱旋帰国。福岡市でも演奏会を開催)。

 その後、東京フィルハーモニー交響楽団、東京ゾリステン、ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターを歴任。

 そして74年には九州交響楽団より、プロ化に際してのコンサートマスター兼指導者として招かれました。


 室内楽、とりわけ弦楽四重奏をこよなく愛され、その源流はウィーン留学時代に、学友たちと「時間があればやっていた」と言われるほどの数々合奏にあります。

 その中に馬場先生もいたのです。


 一つ前に投稿しましたアマチュアと弦楽四重奏をともにするアルバイトはこの延長線上にあり、弦楽四重奏発祥地であるウィーンならではの日常です。

 64年に帰国後、岸邉さんは東京フィルのコンマスに、馬場先生は首席奏者に就任し、指揮者を挟んで対峙することになったのです。

 そして、2人はウィーンで味をしめた弦楽四重奏に取り組み、66年、ジュリアード弦楽四重奏団の来日(初?)の際、日光で開催されたマスタークラスに参加したのです。

 このマスタークラスには、当時桐朋学園大学の学生だった原田幸一郎さんら東京クァルテットのオリジナル・メンバーが受講していました。

 このマスタークラスが機となって、4人は揃ってジュリアード音楽院に留学し、世界をまたにかける日本発の弦楽四重奏団が誕生する歴史的な時だったのです。


 しかし、その後、岸邉さんはロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団のコンマスに就任し、再渡欧。

 帰国後、九響プロ化に際して福岡へ移住。

 馬場先生と岸邉さん、二人の人生は遠くかけ離れたようでした。


 しかし二人を再び強く結び付けたのは弦楽四重奏だったのです。

 岸邉さんは九響就任の翌年の75年、福岡モーツァルト・アンサンブルを設立。

 初の九州発常設弦楽四重奏団の誕生です。


 岸邉さんは健康上の理由で81年に九響を退団し、元・巖本真理弦楽四重奏団のチェリスト、当時、京都市立芸術大学教授の故・黒沼俊夫さんの誘いで同大学教授に迎えられました。

 当初、この弦楽四重奏団は九響メンバー他、在福のメンバーで組織したのですが、京都市立芸大と九響のスケジュールと合わせるのは難しくなり、チェロは先の黒沼さんの紹介で現・東京藝術大学教授を務める河野文昭さんに。

 1年後に留学という約束での参加だったため、再び、新しいチェリスト探さねばなりませんでした。


 そこで岸邉さんは馬場先生に連絡を取ったのです。

 馬場先生は東京フィルの退団を決めていたため、まさに渡りに船。

 こうしてウィーン仕込みの盟友は再び弦楽四重奏をともにするのです。


 ベートーヴェンの弦楽四重奏曲全曲演奏に取り組み始めたばかり、年間に100日ばかり合奏をし、この四重奏団が著しい進境にあった時期でした。

 馬場先生は、岸邉さんを音楽創造と合奏への意思がとても強い音楽家と敬意を表されていました。

 長い付き合いでしたから、お互いに確執も生まれたでしょうが、冒頭の福岡モーツァルト・アンサンブルの写真が馬場先生の自宅に飾られていたことが、先生にとってどれほど大切な時間だったかを物語っています。


2021.1.19初出ですが、2.15の最終回に合わせて掲載日を変更

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