F.J.ハイドン 弦楽四重奏曲 二長調 作品71₋2 Hob.Ⅲ₋70
バロックから私たちの時代の楽曲で祝うベートーヴェン250歳 10夜のオマージュ「第4夜」のまず幕開けはハイドン円熟期の一曲から。
F.J.ハイドン
弦楽四重奏曲 二長調 作品71₋2 Hob.Ⅲ₋70
「ハイドン、61歳。人生の頂上で築いた弦楽四重奏曲の第二の一里塚とは?」
ハイドン61歳、最初のロンドン演奏旅行を終え、熟達した筆に磨きがかかり、彼らしい晴朗さに洗練さが加わっております。
ベートーヴェンが故郷ボンからウィーンに移り、ハイドンに弟子入りした翌年に書かれました。
明らかに7年後に作曲されたベートーヴェン最初の弦楽四重奏曲集作品18の下敷きとなったことが伺えます。
こちらがその動画です。
この曲が作曲された3年前の1790年に、ハイドンは29年間仕えたハンガリーのエステルハージ家を離れました。
当主ニコラウス侯が亡くなり、後継者のアントン候は音楽に関心がなく、宮廷楽団は解散、楽長ハイドンもリストラとなったのでした。
しかしハイドンは当家より年金が支給される好条件の上に、自由の身となってウィーンへと移ったのです。
そのようなハイドンに目をつけた男がいました。
ロンドンのやり手の興行主、ザロモンです。
彼は91年と94年にハイドンを当地に招き、名作「驚愕」や「ロンドン」を含む新作交響曲12曲とオペラなどを上演させました。
大成功。
ハイドンは富と名声を得ました。
その2回の渡英の狭間に2つの弦楽四重奏の3曲集、作品71と74が書かれました。
当夜の曲はその中の代表曲の一つです。
絶頂期のハイドン、円熟味に洗練さが加わりました。
その12年ほど前にハイドンは、ロシア四重奏曲集作品33において、これまで娯楽音楽だったこの分野を芸術音楽へと変革させました。
それに対峙したモーツァルトがかの有名な「ハイドン・セット」を捧げたほど。
そしてハイドンは再び弦楽四重奏の一里塚を築いたのです。
これまで緩徐楽章では整然とした情緒が歌われていましたが、夢想美が加わり感情をもっと自由に表現する新しさを感じさせます。
また第3楽章メヌエットはとても諧謔的で、スケルツォ風。
ベートーヴェンの域に達しています。
そして、これまでに屋敷などで私的に演奏されてきた弦楽四重奏曲でしたが、これらは劇場にて一般聴衆に聴かせることが意図されたのです(2度目のロンドン訪問で上演)。
これも弦楽四重奏曲に新しい局面を拓きました。
作品71と4は弦楽四重奏曲を深く愛したウィーンのアントン・アポーニー候に献呈されました。
アポーニー候はウィーン・デビュー成功を収めたばかりのベートーヴェンの才能に惚れ込み、弦楽四重奏曲を依頼するほどの愛好家でした。
ベートーヴェンが最初の四重奏曲集 作品18を世に出す数年前のことです。
しかし慎重なベートーヴェンはそれに応えず、サロンで演奏される師ハイドンの四重奏曲に接し、その技法を直に掴み取り、処女作品集の準備を着々と整えていたのでした。
作品71・74は明らかにその下敷きなっています。
<おまけ>別の演奏でもお楽しみください。
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