亡き従姉のピアノ(現在、THE BARさん所有)
かんまーむじーく のおがた代表の渡辺伸治氏の個人的な出来事の原稿ですが、この度開店30周年を迎えられる直方市内のバー「THE BAR」さんにあるピアノについての興味深いお話でもありましたので、少し編集してお届けします。
1.序章
10年ほど前に脳出血で亡くなった従姉が所有していたピアノが直方市内のバー「THE BAR」にあります。2歳上の従姉が高校を卒業し、実家を出てから、このピアノは10数年眠っていました。しかしこのバーに引き取っていただいてからは、数多くの素晴らしいジャズ・ピアニストに奏でられています。従姉のピアノは思わぬ、そしてこれほどない幸せな第2の人生を歩むことになったのです。
従姉が亡くなって数年後、従姉の両親をこのバーに招き、私のチェロと友人の伴奏で数曲演奏しました。従姉の両親にピアノと再会してほしかったのです。3年前に従姉の父親が没し、今年8月に母親が続きました。9月29日は母親の四十九日法要です。その後に従姉のご主人と子供、妹をはじめとする親戚のために4曲ほどの小さな演奏会を開くことにしました。従姉の家族はピアノを嗜んでいた従姉を知りませんので、それを伝えたいのです。また、従姉が好んで演奏していたポップス曲をそのプログラムに入れたいと思っています。
2.購入当時の風景
ピアノには「調律検査カード」が付属され、それに調律した年月日と技術者の名前が記しされます。そして出荷前に工場で検査などをした日が検印されます。ヤマハである日本楽器製造のロゴが、現在の3つの音叉を重ねたものではなく、グランド・ピアノです。
このカードの「6.納入調律」欄に記された昭和41年7月8日が従姉の家に納品された日ということになります。従姉が8歳、小学校2年生の時です。
伯父・伯母両親が慎ましい生活をしていたことは子供ながら感じていましたから、アップライト・ピアノの購入はたいへんだったはずです。弟である従兄と同い年で、幼いころはよく家に泊まりに行ったものです(残念ながら今年夭折してしまいました)。
従兄の誕生日に、家族と私で伯母のごちそうとケーキを囲み、ケーキの蝋燭に火をつけて、従姉が「Happy Birthday」をピアノで弾いた情景を今でも鮮明に記憶しています。昭和そのものの風景です。森山良子の佳曲「バス通り裏」が頭の中で鳴り、松本隆の詩が心に染み入ります。鳥の唐揚げがご馳走で、特別な時にだけに食卓に並ぶ時代でした。精神的にはとても満たされていました。
3.このピアノについての推測
ある方の助言でこのピアノのことが色々と判りました。まずこのヤマハはドイツの老舗ベヒシュタイン社の仕様で、「調律検査カード」の「ヤマハピアノ」の字体が昭和初期ものから、納品は昭和41年ですがそれよりも前に製造されていたものではないかと。
べヒシュタイン社は19世紀半ばにベルリンで創業。リストやドビュッシーに愛されたことで知られます。従姉のアップライト・ピアノは高さが低いことが気になっていましたが、これもべヒシュタインの特徴でしょうか?
私も調べました。グランドピアノの社名ロゴは昭和9年~41年のもので、以降現在の音叉を3つ重ねたものになりました。そして「調律検査カード」シリアル番号先頭の「U1D」から昭和30年代後半に製造されたものです。昭和40年より「U1E」となっております。
ということは、従姉のピアノは昭和41年に納品されましたが、製造はそれより数年前の旧モデルということになります。そのころ私の両親も姉のためにアップライト・ピアノを購入しました。しかし背丈は高く、ゴールドの「YAMAHA」の文字は従姉のピアノのように正面ではなく、鍵盤を開けた蓋の内部に施された現在の仕様でした。
このような想像が巡ります。慎ましい生活をしていた従姉の両親にとってピアノの購入はたいへんだったはず。ところがこの旧モデルのピアノがヤマハ本社にデット・ストックとして残っていた。そこでバイヤーは現役モデルより安価で購入できるこのピアノを手配したのでは?
このピアノは金銭的な価値は低くはありますが、ヤマハのピアノが世界のブランドを目指していた時期、現在の礎を築いた時期のものです。
4.THE BARさんへ
先週末にピアノを弾いていただく友人とリハをしたところ、従姉のピアノの音色がとても綺麗なことに驚かされました。当時は家庭用のピアノであってもしっかりと作っていたようです。またこのバーに移した時に、腕利きの調律師の方が1日がかりで整調してくれたので、とても弾きやすい。調律カードからこのバーにこのピアノがやって来た日が判ります。平成7年6月1日です。
30年前にこのバーがオープンした時には、マスターのお兄さん(お嫁さん?)から借りたピアノがありました。しかししばらくしてお兄さんのお子さんがピアノを始めるということで返さなければならなくなったのです。そこで私が持てあましていたヤマハの電子ピアノを購入していただくことに。しかしライヴのたびに演奏者から「やはり生のピアノの方がイイよ~。」という声が。
一方で従姉の姪がピアノを習うことになり、10年以上実家で眠っている従姉のピアノを姪の住まいに移そうということになった。しかし住まいが集合住宅のため、スペースの問題で難色を示していた。さらに高い階上だから移動の費用も大きい。そこで私が従姉のピアノとバーの電子ピアノを交換することを持ちかけたのです。
成立。こうして従姉のピアノはTHE BARさんでの幸せな第2の人生を歩むことになったのです。
5.演奏会
伯母の四十九日は台風と重ならず何よりでした。法要の後、20人のほどの家族・親戚が残り、拙奏で亡き伯父・伯母・従姉・従兄を偲びました。特定の方々に聴いていただく演奏会、室内楽の原点です。
曲目は、サン=サーンス「白鳥」、バッハ 無伴奏チェロ組曲 第1番から前奏曲、チューリップ 「銀の指輪」(作曲 財津和夫)、カタルーニャ民謡「鳥の歌」。
「銀の指輪」は従姉が愛奏していた曲で、当時、従姉はフォークソング雑誌に付録であったポップス曲の楽譜をよく弾いていました。「銀の指輪」はかなりのお気に入りだったようで、私が遊びに行った時は必ず聴こえてきて、耳にタコができるほど。
終演後、ピアノ、亡き4方の思い出話に花が咲き、従姉と従兄の子どもや孫がピアノを弾く。故人と会話しているようなとてもいい風景です。会を開いて良かったです。
聴きに来てくれた私の友人が「このような幸せな時間にご一緒させていただきありがとうございました。」と親類に言ってくれたのです。
またその友人はピアノというその場所に固定される楽器だからこそ、このピアノに幸福な第2の人生を送るストーリーが生まれたと言う。確かに、弦楽器や管楽器などでは、私たちアマチュアが使った後に素晴らしいプロフェッショナルの手に渡り、その音がオーディエンスの心を震わせるというケースは稀でしょう。
このピアノがTHE BARへ来たことはいくつかの偶然の重なってのことでそれらに感謝します。
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